初めての靖國神社|なぜもっと早くに来なかったのか…

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2023年5月に奥さんと行った、東京・横浜の2人旅。

どうしても行きたかったのが、「靖國神社」

本当に行って良かったです。

いろんな人に行ってほしいなと、心の底から思います。

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靖國神社に行きたかった理由

日本のために戦ってくださった方々に感謝するとともに、曾祖父の名前もあるのか知りたくて行きました。

参拝することができたため、ひとつの目的は達成できました。

しかし、曾祖父の名前は見つけることができませんでした。

なんか届け出をすれば良いみたいだけど、誰もやってないのかな…。

んー無念。

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思ったよりも広い

今回、初めて行くことができた、「靖國神社」。

思ったより広いし、資料館などもあったり、見るところが多い!

隅々まで見学するためには、結構時間がいるなと思いました。

今回は、新幹線の時間もあったため、十分に見ることができませんでした。

次回は、もっと時間に余裕を持ちたいと思います。

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散策しながら

参拝するところまで行く道中にも、いろいろな銅像などがありました。

胸を打つ銅像もあり、悲しい気持ちに…。

さくら陶板というものもあり、岩手県が奉納したものも発見。

こういうものがあるのは知りませんでした。

大村益次郎の銅像というものもありました。

恥ずかしながら、大村益次郎さんのことを存じ上げません。

ちょっと調べてみると、すごい人でした。

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大村益次郎について

靖國神社と大村益次郎

なぜ、靖國神社に大村益次郎の銅像があるのかというと、「東京招魂社(現:靖國神社)の創建に深く関わったから」らしいです。

また、大村益次郎は、戦没者の供養と、多くの日本人が訪れるようにするために、靖國神社を、桜の名所にすることを提案したらしいです。

(・∀・) 「めっちゃ素敵な人やん!植えられてた木は桜かぁ」

ちなみに、この大村益次郎の銅像は、日本初の西洋式の銅像らしいです。

m(__)m 「らしい」ばっかりですみません。

どういう人物なのか

気になっていろいろ調べてみると、生まれは長州で、「陸軍の礎を作った人物」とのこと!

そのため「陸軍の父」とも言われているみたいです。

なぜ、「陸軍の父」と言われるのかというと、戦略を立案する能力がめちゃくちゃ高かったからのようです。

四鏡戦争での活躍

その才能を発揮したのが、「四鏡戦争」でのこと。

幕府に刃向かう長州を、幕府が討伐しようとした戦い。

長州軍4,000に対し、幕府軍は150,000!

兵力差だけを見れば、長州に勝ち目なし。

しかし、長州は大村益次郎が中心となって、緻密な戦略で幕府軍を迎え撃ちます。

大村益次郎は次のようなことをしたらしいです。

  • 情報収集(徹底的に地理情報などを把握)
  • 最新技術の導入(西洋の最新の武器を使う)
  • 作戦(選択と集中)

ものすごい兵力差ではありましたが、最新兵器の力と、戦略により、多勢の幕府軍を圧倒。

幕府軍を倒してしまいました。

この戦いがきっかけとなり、その後、幕府を倒し新しい時代へ向かう動きが強まり、大政奉還へとつながっていったとも言われているようです。

大村益次郎という人物を今まで知りませんでしたが、すごい人物でした。

靖國神社に行かなければ、知ることはなかったと思うと、靖國神社に行って良かったです。

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遺言状

その後も散策を続けるていると、昭和19年に戦死された方の「遺言状」がありました。

「遺言状」

我 今 国の為に死す。
必ず 必ず 嘆く勿れ、泣く勿れ。
男子 皇国に生を受け、君国の為に戦の庭に殉死するは、至上の栄誉なり。
此の肉体は、異国の土と化するとも、心霊は故国に帰り、永遠に生き延びて祖国日本を護るなり。
我 亡き後は身を修め、家を整へ、益々銃後の務めに奮励し、軍人遺族として恥かしからざる様、精進すべし。
我が子は、自己の再生なり、一子、和枝の養育に特に意を用ゐ立派に成人さす様、呉々も頼むなり。

陸軍伍長 山田 豊吉 命

昭和19年3月3日
西部ニューギニア・マノクワリ沖にて戦死
福井県三方郡十村出身 37歳

これを読んで、その場で号泣。

そして、ブログを書きながら、また号泣。

「泣く勿れ」と書いてありましたが、泣いてしまいました。すみません。

すごく立派な方だなと思いました。

家族への思いが詰まっているなと感じました。

特に最後の一文が泣ける。

こんな立派な方が、37歳という若さで亡くなってしまったと思うと、やるせないです。

戦争が無い世界になってほしいものです。

補足|「銃後」とは

遺言状の中に書かれていた「銃後」という言葉の意味が分からず調べてみました。

「銃後」とは、非戦闘員である一般国民や非戦闘地域である国内を指した言葉のようです。

総力戦となった大東亜戦争の際、「銃後の護りは台所から」といったスローガンもあったそうです。

要するに、「食糧不足の中、主婦が台所で知恵を絞って家族の胃袋を少しでも満足させることは、国内の護りにつながる」ということなんだと思います。たぶん。

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展示がすごい!

参拝も終えて、再びぶらぶら歩いていると、すごいものを発見。

零式艦上戦闘機!いわゆる「零戦」!

かっこいい…。

他にも、零戦の機銃の展示もありました。

常設展もやっているようだったので、観てみることに。

大人1枚で1,000円。

この常設展がものすごかった。

本音を言えば、

(´_ゝ`) 「1,000円かぁ。ちょっと高いような…」

と思ったのですが、全然高くない!

展示量、情報量、情報の質がすごく高くて、1時間くらいでは足りない!

展示を見ていたおじいさんも

(´Д`) 「疲れちゃったよ~」

と言って、ベンチに座り込んでいました。

じっくり見るためには、丸一日かかるかもしれません。

神社の中に、喫茶店もあるので、丸一日いることも可能だと思います。

新幹線の時間もあったため、今回はじっくり観ることができませんでしたが、次回は、じっくり時間を確保したうえで、観に行きたいと思います。

日本の歴史が詳しく紹介された展示は、いろんな人に観てもらいたいです。

これで1,000円は安いと思いました。

ほんまに靖國神社に来れて良かった。

また来ます。

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まとめ

本当に行って良かったし、また行きます。

今度は、もっと時間に余裕を持って行きます。

日本の歴史を学ぶうえで、靖國神社に行くというのも、非常に意義深いことだと思います。

いつか、桜の咲くころに行ってみたいものです。

それではまた(・∀・)ノシ

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